2009年9月28日月曜日

2009.8.13~14香川県


休暇村讃岐五色台よりの眺め(瀬戸大橋の向こうは母方の田舎本島です。)

金比羅山にて

エブリワゴン納車後初のロングドライブで、明石海峡大橋から、金比羅山、満濃池などをめぐり休暇村讃岐五色台で1泊、うどん食べたりしながら、瀬戸大橋経由で戻ってきました。

2009年9月27日日曜日

2009.9.27京都市美術館

                                ヘンドリック・ファン・ステーンウェイク(子)【聖堂の内部】1630~1640年頃


京都市美術館ルーブル美術館展最終日行ってきました。70分待ちでしたがなんとか鑑賞できました。(娘は「よく見えなかった」とのことでしたが)妻が楽しみにしていたので行けてよかった。                              

2009年9月25日金曜日

松江城

2007年8月 蒜山~出雲大社、松江方面へ行きました。
松江城は武骨な感じが好きです。


                                                

日本に12箇所しか現存しない、江戸時代以前建造の天守を有する城郭の一つである(現存天守)。また中国地方県庁所在地に所在する唯一の現存天守でもある。

松江市街の北部に位置し、南に流れる大橋川を外堀とする輪郭連郭複合式平山城である。本丸を中心に据え、東に中郭、北に北出丸、西に後郭、東から南にかけ外郭、西から南にかけ二の丸が囲んでいる。二の丸の南には一段低く三の丸が配されている。

高さ30メートル、5層6階の天守は桃山様式の天守として築城当時のまま現存しており、国の重要文化財に指定されている。

江戸時代には松江藩の藩庁として、出雲地方の政治経済の中心となった。現在は松江城山公園として観光名所となっている。

宍道湖の眺望が良く日本三大湖城の一つとなっている。また、桜の名所として日本さくら名所100選に選ばれている。

城内には松江市街のミニチュア模型が展示されている。

(Wikipediaより抜粋)

2009.1.14 尼信博物館



備前国守家(重要文化財)
守家090114_151916.jpg (288×162)折り紙090114_151954.jpg (288×162)
畠田守家は福岡一文字系であって、事実上の畠田系統の祖となった名工である。鎮切、宝厳院太刀作者として名高く光忠に作風が最もよく似ているが、両匠の間には相当親交があったものと思われ、尾張徳川家に両匠の合作があると聞いているが信じがたい。徳川時代は無論のこと、現代においても刀剣の名前についてはめでたいものをよろこんだので、守家は家を守るの意になり特に愛刀家の賞玩が厚い。
(日本刀の掟と特徴 本阿彌光遜著より) 

2008.11.12 和歌山城

職場から徒歩10分くらいで行けます。

  

和歌山城は和歌山市の中心部に位置する標高48.9mの虎伏山(とらふすやま)に建造され、北部を流れる紀の川を天然の堀とする。本丸の北側に二の丸が配され、その外に大きく三の丸が配された、梯郭式平山城である。

徳川頼宣1621年(元和7年)より城の大改修と城下町の拡張を始め、計画では完成時より更に大規模な城構えになる予定であったが、大規模な改修であったため幕府より謀反の嫌疑をかけられるほどであった。しかし、附家老安藤直次の弁明で事なきを得た。また、外堀も拡張して総構えにしようとしたが、幕府より嫌疑をかけられ中止させられてしまったため、堀止の地名が残っている。後、数度の火災に遭ったが、その度に再建された。現在、城跡として現存しているのは最盛期の4分の1ほどの面積である城の北側から見た図

その他、特徴としては時代によって異なる石垣の積み方などがある。それに、豊臣・浅野時代の石垣には刻印された石垣石がある。模様は約170種類、2,100個以上の石に確認されているが、その大半が和泉砂石である。

現在は、本丸と二の丸が和歌山公園となっており、本丸南西部には和歌山縣護國神社があり、南の丸には和歌山公園動物園がある。主に三の丸跡等には県庁和歌山市役所和歌山市消防局和歌山地方裁判所和歌山家庭裁判所和歌山地方検察庁をはじめ公的機関や学校、商業施設、オフィス街、和歌山中央郵便局県立近代美術館県立博物館などがある。

遺構として石垣、堀をはじめ、公園内には岡口門と土塀、追廻門が現存し、岡口門と土塀は国の重要文化財に指定され、二の丸にある大楠は県指定特別天然記念物に指定されている。また、大小天守群とそれに続く櫓・門、大手門・一之橋が復元されている。

(Wikipediaより抜粋)

2008.5.4 貴志川駅

いちご電車やおもちゃ電車にのりイチゴ狩りに行きました。たまはきちんとポーズをとりなかなかのものでした。

2009.5.24 大原美術館にて

倉敷刀剣博物館、大原美術館に行きました。中庭で見つけ思わず撮りました。

2009年9月24日木曜日

2008.12.3 大阪城

晩秋の午後、陽気に誘われぶらりと訪ねました。                                                                                                                        

通称「太閤さんのお城」とも呼ばれているが、1959年(昭和34年)の大阪城総合学術調査において、城跡に現存する櫓や石垣などは徳川氏、徳川幕府によるものであることがわかっている。

大坂城は、上町台地の北端に位置する。かつて、この地のすぐ北の台地下には淀川の本流が流れる天然の要害であり、またこの淀川を上ると京都に繋がる交通の要衝でもあった。戦国末期から安土桃山時代初期には石山本願寺があったが、1580年(天正8年)に焼失した後、豊臣秀吉によって大坂城が築かれ、豊臣氏の居城および豊臣政権の本拠地となったが、大坂夏の陣豊臣氏の滅亡とともに焼失した。徳川政権は豊臣氏築造のものに高さ数メートルの盛り土をして縄張を改めさせ豊臣氏の影響力と記憶を払拭するように再建したとされる。幕府近畿地方、および西日本支配の拠点となった。姫路城熊本城と共に日本三名城の一つに数えられている。

現在は、昭和初期に復興された天守と櫓や門などが現存し、城跡は、国の特別史跡に指定されている。

(Wikipediaより抜粋)

2009.3.29 彦根にて

彦根城で虎徹を展示していると知り行きました。一竿子忠綱の刀、虎徹の脇差が井伊直弼の差し料だったそうです。

2009年9月23日水曜日

徳川美術館で購入した徳川家康三方ケ原戦役画像です。
徳川家康は生涯の多くを合戦の中に費やした名うての戦上手の武将であったが、その歴戦中、最も有名な敗戦は家康31歳に当たる元亀3年(1572)12月、三方ヶ原で起こった武田信玄との合戦である。家康は後年、この敗戦を肝に銘ずるためにその姿を描かせ、慢心の自戒として生涯座右を離さなかったと伝えられる。威厳のある堂々とした権現像とは異なり、憔悴しきった家康の表情がたくみに描かれている。 と説明があります。私も慢心せぬよう部屋に飾ろうと思ったのですが、2人の娘にとっては理解できないようです。

名古屋に行きました



  •   9月19日13時30分ごろ仕事を終え、愛車エブリワゴンで名古屋へ。 予定どうり18時ごろ名鉄イン名古屋錦へ到着。 研修を終えた妻と合流。 翌日、名古屋城へ。 昨今の歴史ブームを反映し、若いカップルが多いのに驚く。 きしめんを食べ、外周約4キロをゆっくり歩く。 研修2日目を終えた妻と合流し、徳川美術館へ。 「信国」「貞宗」「保昌貞宗」[南泉一文字」など名刀を鑑賞。 天気もよく楽しい旅でした。

    名古屋城は、織田信長誕生の城とされる今川氏織田氏那古野城(なごやじょう)の跡周辺に、徳川家康が九男義直のために天下普請によって築城したとされる。以降は徳川御三家の一つでもある尾張徳川家17代の居城として明治まで利用された。

大坂城熊本城とともに日本三名城に並び称され、伊勢音頭にも「伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ、尾張名古屋は城で持つ」と歌われている。大天守に上げられた金鯱(きんこ))は、城だけでなく名古屋の町の象徴にもなっている。

大小天守や櫓、御殿の一部は昭和初期までは現存していたが名古屋大空襲(1945年)によって天守群と御殿を焼失し、戦後に天守などが復元され、現在城跡は名城公園として整備されている。

(Wikipediaより抜粋)